残像:9


「いいんだよ。君の気持ち、分かるから・・・全部捨てて何処か行ってしまいたくなる気持ち、僕はよく知ってるから。」
「え?」
「・・・いや、なんでもないんだ。」

少しカナさんの表情が翳りが出来た気がした。すぐに消えてしまったので、見間違いだったのかもしれないけれど。
その見間違いかも分からないような翳りが、何故か僕の背中を押してくれた。


「・・僕は、明日香に会う資格がないんです。」
「どうして、そんな風に思うの?」
「多分、明日香の人生で1番の汚点は僕だったと思うんです。」

突拍子もなく、こんなことを言い出した僕を心配そうにカナさんはじっと見つめる。

「・・・ゆーくん?」
「出会わなければ良かった。俺が最初で最後の恋人なんて・・・明日香に申し訳なくて。」

兄であるカナさんの前でなんて情けない告白をしているんだろうと頭では分かっているのに。


「ゆーくん、そんなこと言っちゃいけない。それは明日香が決めることだよ。君が言っていいことじゃない。」
「だけど・・・」
「あの子にとっての幸せは、君といた時間なんだよ。あの子は君が大好きだった。そんなあの子の気持ちを無下にするようなことを、君が言っちゃいけない。・・・明日香が悲しむよ。」
「・・・」
「明日香はね、君だから好きになったんだよ。」
「・・・」
「君も明日香が好きだったでしょ?」
「・・・それは、はい・・・とても大切でした。」
「その気持ちがあれば、きっとあの子も十分だったはずだから。」
「俺は…何も出来なかった。なのに、今もこんなで…」
「2人のことで、明日香はもう後悔なんて出来ない。だから、君ももうしちゃいけない。フェアじゃないよ。」
「…え?」
「あの子はそんな言葉、望んでないよ。君がそんな風に言ったら、明日香だってきっと同じ様に君に申し訳なく思うんじゃないかな。明日香の気持ちは明日香にしか分からない。それなら、大切なのは君の気持ちだよ。明日香と一緒にいた時の明日香を大切に想う気持ちだけ、これからも忘れないでやってくれたら、僕はそれでいいと思うよ。」
「でも・・・」
「明日香を理由に逃げないで。これからの君の生き方は君次第なんだから。」
「俺次第・・・」

逃げることしか考えず墜ちていく僕は、差し出された優しい手に強く引っ張りあげられる様な気分だった。


「帰ろう?帰って、明日香に会ってやってよ。…ね?あの子も今の君に逢いたいと思ってるから。」

明日香を失ってからの1年間、ただ無意味な時間を無駄に費やしただけだった。
その無駄を削ぎ落としたら、残るものは何だろう。
それは、きっと、明日香を最期の瞬間まで看取れなかった後悔と、目の前にいる優しいヒトへの消せない想いだ。

今更、明日香というフィルターを通して、その向こう側にあるものを求めていた自分を思い知る。
明日香との大切な時間の中にはいつもこの人の影があった。
好きだ・・・今でもこの人が・・・あの日の残像だけなんかじゃない・・・ずっと、ずっと、いつからか、僕はこの人が・・・。
認めないように生きてきた。―――-明日香への罪悪感を理由にして。
僕は本当にズルかったんだ。



「・・・はい。」

返事をして、そのまま黙り込んだ。
次に何か喋ったら、出てきてはいけない感情が全て溢れだしてしまいそうで・・・とにかく口を噤むことで精一杯だった。
今は言えない。言ってはいけない。…こんな僕のままでは。



何かを振り切るような勢いで、注文したアイスコーヒーをブラックのままで一気に流し込んだ。
いつもは甘くないと、飲めないくせに、今日はそれがちょうどよく思えた。


「おっと、そろそろバスの時間だ。行こうか?」
「ええ。」


喫茶店を出て、駅の改札を通り抜けると、生温い風と痛い程の日差し。
その瞬間、今年初めて、明日香が好きだった暑くて、眩しい“夏”という季節を感じた。

それだけじゃない、全てのことから逃げ出し、時間が止まっていた僕の中で、微かな振動が起こり始めていることを感じずにはいられなかった。



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