君が求め続ける空 僕を突き動かす青:序章


ーprologueー

雲一つない澄み切った空の下。

僕は生まれた。

彼が僕に、温かい手を差し伸べた瞬間に。



残されたものは一つもなかった。

気がつくと、街中をぶらぶらと歩いていた。

自分は一体何者で、何故、此処にいて、これから何処へ向かうのか、

そんなことなど一切覚えていないし、考えようともしていなかった。

唯一つ、残っていたのは・・・絶望だけ。

「自分にはもう、何もない。」

夜の闇のような黒い髪に映える一筋の光が差し込んだような澄んだ青い瞳を持つ少年は、

ただ黙々と街を歩き続けていた。 

少年の瞳のように、雲間から僅かに見える空の光は眩しく、そして、残酷だった。



どれくらい歩いたのか、少年にはもう歩く気力も無くなって、立ち止まった。

周りには見たことのない景色が広がり、それは少年がどれだけ遠くまで歩いたかを示していた。

生まれて初めて海を見たのだ。

少年はその海の美しい青に溶けてしまいたいと思った。

疲れきった足は、その青を目指してまた歩みを始める。

足に冷たい水が触れた。

5月の海はまだ人が入るには冷たすぎるけれど、少年の足は構わず、海の深くへと進む。

腰まで水に浸かりきってしまっても、やがて外から見える部分が頭だけになってしまっても、

少年は青に向かい、その身体を沈めていった。

口に海水が入り込んでくる頃には、少年は思った。

“これで僕は、青になれる”と。

僅かに残された最後の意識を失いそうになった時、誰かが少年を呼んだ。


「待て!何、やってんだ、お前。」

“邪魔するな、僕はもうすぐ・・・青になれるんだ”

「お前、死にたいのか!・・・クソッ・・・待ってろ。今、助けてやるから。」

“いらない、放っておいて。このまま、静かに・・・”


強い力に少年は抱きかかえられ、岸に引っ張り上げられた。

水に濡れた少年の身体は酷く重かった。

あと少しで海に溶けてしまえると感じた時はあんなにも軽かったはずなのに。


「なんで、こんなこと?」


責める風ではなく、問いかけるような声がする。


「あと、ちょっと遅かったら、お前・・・」

「・・・・・」

「分かってんのか?あのまま沈んじまったら、お前、死んでたんだぞ?」

「・・・・・」

「死んで消えちまうんだぞ?」


少年は必死になって話しかけてくる人物の顔を見て、微かに首を傾げた。

海水で濡れた赤みがかった茶色の髪で少し隠れた青年の顔は、何故かとても悲しそうだった。


「・・・死ぬ?・・・消える?」

「そうだ。」

「・・・違う。」


そうだ、死にたかった訳じゃない。少年の望みはそんなことではなかった。


「僕は・・・僕はあの青に溶けたかったんだ。」


何も持たない少年は自分の身体の重みすら支えられず、その青に溶け込んでしまいたかった。

それは少年にとって“消える”のではなく、“交わる”なのだ。


「青は僕を綺麗にしてくれるかもしれないから・・・」


もう1度、海へと向かっていきそうな少年の遠くを見つめる視線に、

脆さと危うさを感じ、青年は強く、その身体を抱きしめた。


「離して・・・」

「だめだ。」

「・・・どうして?貴方には関係ないでしょう?」

「関係なくない。俺がお前を見つけたんだ。」

「・・・・・」

「死なせたりしねえよ。」

「・・・一人は嫌だ。離せ。僕はあの青と一つになるんだ。」


青年の温かい腕の中、少年は?いた。

その温もりは今の少年には毒でしかなかった。


「離せ!!」


その腕から少年が逃げ出すと、声を掠れさせながら青年は叫んだ。


「お前の青はそこには無ぇんだ!!」


その声に少年は身体を震わせた。


「・・・っ・・・何言って・・・!」


少年は自分の目指す先を否定され、青年を睨みつけたが、すぐに肩の力が抜けた。

青年は酷く優しい顔で微笑みかけていたからだ。


「お前の青はお前の上にあるんだ。」

「・・・う、上?」

「そうだ。お前の探している青は、空の青だ。」


頭上に広がる青い空は少年にはあまりに眩しくて、いつもそこから目を逸らして、生きてきた。


「違う・・・空になんかない。だって、絶対に届かないじゃないか!」

「届くよ。時間はかかるかもしれねーけど届くまで歩くんだ。逃げないで。」

「・・・・・辿り着ける訳が無いよ。だって、僕には何もないんだ。」

「そんなことない。何も無くなんかない。」

「だって、僕は、もう名前すら覚えてないんだから。」


その時、青年は悟った。

少年が深い闇の中を一人彷徨い続けていることを。

そして、その抜け道を探し出せずに一人きりで苦しんでいることを。


「来いよ。俺と一緒に。」

「え?」

「お前が空に届くまで、俺が一緒にいてやる。」


勢いで発してしまったとはいえ、なんて無責任な言葉だろう。と思ったけれど、

青年はそれを言わずにはいられなかった。

目の前の今にも壊れてしまいそうな少年の心を救い出すには、青年にはそれしか見つからなかった。


「お前の名前は・・・ソラだ。」


少年の目から一滴の雫が零れ落ちるのを見て、青年は続けた。


「おいで、ソラ。お前の新しい家に行こう?」


少年は躊躇いながらも、静かにスーッと差し伸べられた青年の手を取っていた。


「ど・・・して?」

「俺も、見てみたいんだよ、そこに溶けちまいたいと思うような青ってヤツを。」


もう1度冷えた少年の身体を青年は強く抱きしめた。

何も持たない少年に与えられたのは2文字の名前と優しい体温。



僕の名前は・・・ソラ。

それ以外は何もない。いや、それだけで十分だ。

他には何も望まないから、どうか、神様・・・もう、奪わないで・・・



目を閉じ、いつか瞼の向こうに広がるはずの青を想像して、少年は静かに涙した。





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